第271回セミナー報告「江戸の街の上水と下水 ~江戸の上・下水の歴史と市民のくらし~」2026年05月
2026年 05月 22日科学技術者フォーラム2025年5月度(271回)セミナー報告
日時:2026年5月16日(土) 14:00~16:45
会場:品川区総合区民会館(きゅりあん)4F 第一特別講習室 + ZOOMオンライン
参加者:27名(会場19名、WEB 8名)
講演者:金子 智 氏 東京都水道歴史館 企画調査責任者
<講演要旨>
1.江戸上水(飲み水)の歴史:
(1)江戸上水の誕生:家康の時代に水道が有ったと言う証拠はまだ見つかっていない。「慶長見聞集」に上水の記事があるが家光の時代に書かれたものであり、確実な史料とは言えない。江戸の初期に上水があったことを傍証するものと言える。
(2)神田上水と溜池上水:井の頭池(水源)からの水を利用した神田上水は神田や日本橋など町家地域に広く給水されたことから「江戸っ子」に親しまれた。玉川上水とともに「江戸の二大上水」として、最終的には明治34年(1901)まで使用された。
もう一つの初期上水として溜池上水がある。現在の溜池山王辺りを水源と上水であるが、その実態については長く不明だったが、近年江戸遺跡の発掘調査によってその給水域から玉川上水に先行する上水遺構が発見され、これが溜池上水の遺構である可能性が指摘されている。
(3)玉川上水の成立:四代将軍家綱の代に誕生した江戸最大の上水網。多摩川(玉川)上流羽村の地から延々43km の人工の上水堀で江戸に水を導き、江戸城及び江戸の南西部に給水した。江戸幕府の日記(「公儀日記」)によれば、玉川上水は「芝口町人」の申出により工事が行われ、その完成は公式には承応3年(1654)の 6 月とされている。ここに見える町人は工事を直接担当した庄右衛門・清右衛門の二人(いわゆる玉川兄弟)と考えられている。
玉川上水には上流域に「分水」と呼ばれる分岐が設けられ、近隣の村々に飲料水や農業用水を供給していた。この完成によって、江戸の街の上水整備とともに、武蔵野の開発も大いに進んだといわれている。完成後は神田上水とともに、最終的には明治34年(1901)まで使用された。
(4)六上水の完成:玉川上水の完成後17世紀の終わりまでに、江戸にはさらに青山・三田・千川・亀有(本所)の4つの上水が造られた。このうち青山・三田・千川上水は玉川上水から水を引いて江戸の外縁部に給水したもので、亀有(本所)上水は元荒川の水を隅田川の東、本所・深川地域に送ったもの。これらを神田・玉川上水とともに「江戸の六上水」と呼んでいる。
(5)4上水の廃止:六上水の完成後、わずか 26年後の享保7年(1722)、新しく造られた4つの上水が突然廃止となった。廃止された理由は現在も議論の的となっているが、外側の武蔵野台地上の村々の灌漑用水を確保するためにとか、維持管理が難しくなったとか、掘井戸の技術が進歩したとかが考えられる。
(6)その後の江戸上水:四上水が廃止されたのち、残った神田・玉川両上水は江戸時代を通じて利用され、明治維新後は明治政府に引き継がれた。明治政府は水道の近代化を模索したが、その実現には時間を要し、江戸上水はその後も長く東京の市民生活を支え続けることとなった。
2.江戸上水の構造:
いずれも基本的構造は同じで、河川から取水し、上流部分は開渠で、市中では埋設管となっている。管路は水量に応じて石樋、木樋、竹樋が配水管として用いられた。川や堀、下水等と交差する際は、掛樋や、潜樋が使用された。
自然流下で配水しているため、傾斜を確保するために、所々に桝を設けて水位を上げる工夫がなされている。箱型の桝(桶桝もあり)は、メンテナンスや樋の方向転換用にも利用された。
市中に配水された上水は、最終的には上水井戸と呼ばれる底板のある井戸に導かれ、そこから釣瓶などで汲み上げて利用された。
なお、主に江戸の井戸は桶で井戸側が作られている。京や大阪の井戸は石で作られたものが多いが、江戸は関東ローム層で石が少なかったため、木(桶)で作られたものが多かった。
3.江戸上水の管理:
江戸市中の上水の管理は、幕府の担当部署(上水方)が担ったが、その所管は江戸時代の間に何度か変更されている。江戸上水に関する賦課には、主に水銀・普請金・水料の三つがあった。(詳細省略)
4.その他の飲料水:
(1)掘井戸と掘り抜き井戸:
(2)水屋と水船:
(3)冷水売
5.江戸の下水:
下水は一部の幹線を除き、多くは使用者によって設置・管理されていた。
上水が暗渠なのに対し、下水は基本開渠で、町家の敷地内など人通りのある場所ではいわゆる「どぶ板」によって蓋がなされている。江戸の町では便所の排泄物は汲み取り式で、下肥として回収されていたため下水には流れず、多くは雨水と生活用水だった
<質疑応答>
1.安曇野(長野)の用水路は山に穴を開けた水路になっているが、こういう技術が江戸の上水路工事に応用されたとは考えられないのか?
⇒トンネルを作り、水路を通すという技術は、神田上水や玉川上水を作った技術に応用された可能性はあるかもしれない。
2.上水路の周りに人が住んでいる限り、上水路の水がだんだん汚れてくることは避けられないのではないか?
⇒井戸を掘って水が出る所は井戸水を利用していたが、江戸の低地では井戸を掘っても塩水しか出ないので、上水の水を利用するしかなかった。
3.玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)によって作られた玉川上水は、100mで高低差がわずか20㎝といわれる高度な技術で作られたが、この技術は何処から来たのか?
⇒正確なところはわからない。木樋の技術は中世には日本にあったので、オランダ(西洋)から来た技術とは思えない。もし海外からの可能性があるとしたら明国かもしれない。
4.下水は生活排水を流すだけで、下水には糞尿は流さず、便所に溜め、肥料として活用した。
⇒便所に糞尿を溜める甕や桶の容量は決して大きくないので、近隣の農民が糞尿を回収する頻度は相当高くないとシステムが廻らなかったと思われる。
5.江戸時代の遺構が遺跡と認識されるようになったのは昭和50年代以降のことである。
6.玉川上水を作るのに大きな力を発揮したのは玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)とともに伊奈家があり、伊奈家は利根川の水路の銚子方面への変更に大きな貢献があったとされるが、関連を結びつける史料はない。
【所感】
100万人を超える人口を抱えた大都市・江戸を支えた上水道・下水道が、どのように築かれ、維持・管理されてきたのかを大変興味深く拝聴しました。
特に、自然流下による配水のために勾配を確保すべく、各所に箱型の桝や桶桝を設け、水位調整や方向転換、さらには維持管理まで行っていたことに感心しました。また、川や堀、下水道との交差部分では掛樋や潜り樋といった高度な技術が用いられていたとのことで、当時としては世界最先端の土木技術であったことを初めて知り、大変勉強になりました。
現在の東京にも、当時をしのばせる地名や場所が残っているので、機会があれば改めて訪ねてみたいと思います。
もともと考古学をご専門とされていた金子先生が、大名屋敷や遺跡の調査を通じて江戸の上・下水道に関心を持たれ、長年研究を重ねてこられた成果の一端を今回お聞かせいただきました。
江戸の高度な都市インフラを支えた先人たちの知恵と技術を知ることができ、大変貴重な機会となりました。ぜひ多くの方々にも知っていただきたい内容であり、今後もこのようなお話を伺える機会を設けていただければ幸いです。
記載:山岸 任