第265回セミナー報告「香りを感じるメカニズム:嗅覚の機能とその特徴」2025年5月 【制作中】
2025年 05月 22日科学技術者フォーラム2025年5月度(第265回)セミナー報告
「香りを感じるメカニズム:嗅覚の機能とその特徴」
日時:2025年5月10日(土)14:00~16:45
会場:品川区立総合区民会館(きゅりあん)5F第3講習室+ZOOMオンライン
参加:34名(会場28名、Web6名)
演者:東京大学大学院 農学生命研究科 応用生命化学専攻 生物化学研究室准教授
博士(農学)岡本 雅子 氏
【講演要旨】
<香りの感じ方、感じる経路>
1.嗅覚は嗅ぐ感覚(専門・口語用語)、臭覚は口語用語で意味は同じ。
2.COVID-19感染者では、多くの嗅覚障害が生じ、9割で食事の楽しみが低減した。
3.香りを感じる経路は2つ。①鼻先からの香りを感じるオルソネーザル、②口腔からフレーバー・風味(あじ)を感じるレトロネーザル。香りと味には役割分担がある。味は栄養素の同定で種や文化を超えて保存された生得的なもの、香りは文化により異なり学習によるもの。
4.言語の獲得とレトロネーザル経路はリンクしている。ヒトは喉頭の位置が低いので、肺からの呼気を口腔に誘導し多様な母音を形成できる。一方、呼吸と嚥下の経路が完全に分離されているチンパンジーは開いた咽頭蓋が口腔をふさぐのでヒトのような多様な母音を作れない。
5.食の香り、生活の香り:一次代謝は生物に共通で、三大栄養素(タンパク質、糖質、脂質)は一次代謝の産物。香りは動植物、微生物それぞれの生物種に特有の二次代謝経路から生成されるものが多い。
6.食べ物の香りは生物の会話であり、他の生物へシグナルを送り、天敵や腐敗への防御を担っている。日常接する匂いは複合臭であり、食品中に確認される香気成分は数百成分有る。
<匂いのもとは揮発性の化学物質>
7.匂いの正体は、分子量100~200程度の揮発性低分子化合物。匂いを呈する化学物質は数十万種類あるといわれている。日常接する匂いは複合臭であり、匂いの感じ方は、温度や湿度、気圧、周りに存在する物質などに影響される。
8.化学構造と匂いの特徴:アルコール類、アルデヒド類、カルボン酸類、ケトン類、エステル類など、それぞれ固有の官能基を有している。
9.香りの抽出、捕集の方法には、溶媒抽出、蒸留法、ヘッドスペース法、固相抽出法などがある。分析機器には、におい嗅ぎガスクロマトグラフフ質量分析計(GC/MS)があり、GCで成分を、MSで質量を分析すると同時に、におい嗅ぎポートを通して官能評価を行う。
10.匂いを感じる濃度(検知閾値):足の臭いにおいの代表的原因物質のイソ吉草酸のヒトでの閾値は80ppt(8X10-11)。機器と鼻を比較すると、鼻の方が高検出の時もある。
11. 食品業界では、香りの多様性と複雑さを視覚的に表現するアロマホイールを利用。
<嗅覚受容体>
12.嗅覚受容体遺伝子:嗅上皮細胞に限定発現している嗅覚受容体遺伝子群を単離/同定した(7回膜貫通型受容体)。2004年ノーベル生理学・医学賞
13.匂いの受容機構:1種類の匂い分子は複数の受容体と結合。1種類の受容体は複数の匂い分子と結合。多様な受容体の組み合わせが匂いをコード。
14.複合臭の表象:1種類の匂い分子であっても、複数種類の匂い分子の混合物であっても、受容体の組み合わせで表象される。受容体の組み合わせが匂いをコードする。
15.ゲノムデータを利用した遺伝子推定:嗅覚受容体遺伝子の特徴を持つ配列をバイオインフォマティクスの手法を用いて同定。ヒトの嗅覚受容体数は約400種類。アフリカゾウは多くて2000種類。イヌは1000種類。イヌの嗅覚が高いのは鼻の構造や、受容体の絶対数が関係しているかも。色覚の受容体は3種類だけと比ベルと大きな違い。個人や人種により、個々の受容体の感度や種類数が異なる。受容体の多型による知覚は個人差が大きい。
<嗅覚信号の伝達>
16.匂い分子情報は、鼻腔上部の嗅上皮にある嗅神経(嗅覚受容体)から直接脳の嗅球へ伝達される。鼻腔側の1嗅細胞―1受容体、脳側の嗅球糸球体―1受容体。脳の嗅球以降の神経回路では、嗅球に「嫌な」におい物質を受容するエリアがあり、扁桃体へ重点的に投影している。先天的に嫌いな(避ける)匂いがあるが、嗅上皮の嗅細胞を破壊すると天敵への恐怖反応は喪失する。
17.受容体からの入力に加え、経験等他の感覚からの入力が加わり、知覚となる。香りの快不快(価値)は文化により異なり、経験を通じて学習する。
18.睡眠の嗅覚処理:音と違って、体は反応しないが脳は反応している。夢に対しては、少しネガティブになるようだ。
19.嗅覚伝導路と大脳辺縁系:嗅覚情報は嗅球→一次嗅覚野(梨状皮質、前嗅核、嗅結節、嗅周皮質、扁桃体など)→二次嗅覚野(海馬、前頭眼窩野、島、視床、視床下部など)へ伝達される。一次嗅覚野の一部は進化的に古い皮質であり、感情や記憶を司る「大脳辺縁系」と呼ばれる領域である。匂いの知覚は匂い物質以外の要因でも影響され、言葉で変化する。
20.脳の中での匂い情報は経時変化し、嗅覚機能は社会、危険、食物に関連している。
<体臭>
21.ヒトの体臭の発生源は、人体の外分泌物、人体の代謝物、微生物の代謝物など多様な揮発性物質である。生体の状態(年齢・代謝・性別・遺伝的背景・気分など)により異なる。体臭を介したコミュニケーションでは、赤ちゃんからのシグナルは養育行動を促進する。乳児の体臭成分を嗅ぐと経産婦はオキシトシンの分泌が促進される。
22.フェロモンは、生物が体外に分泌することにより、同種の他個体の応答を促す化学物質のこと。フェロモン専用の鋤鼻器官が齧歯類やヘビでは発達しているが、ヒトでは退化している。
【主な質疑応答】
Q1:味覚と嗅覚に関連性はあるのか?
⇒ 視覚、聴覚、触覚が物理的な刺激を受容する感覚であるのに対し、味覚と嗅覚は、化学物質を受容する感覚という点で共通点がある。前頭眼窩野と呼ばれる様々な感覚を統合する領域だと言われている。味と匂いの情報が統合されて、味やフレーバーが生まれるといわれている。
Q2:嫌いな匂いとは?
⇒ 本能的に危険を感じる匂いは、齧歯類においては見出されているが、ヒトにおいては、まだ分かっていない。現状の知見では、ヒトでは匂いの快不快を学習によって獲得すると考えられている。匂いの快不快は、ある程度民族によって異なる。
Q3:嗅覚には数値単位、あるいは範囲があるか?
⇒ 聴覚のような分類したり、定義したりできない。ある程度揮発して嗅上皮で嗅粘膜に溶け込み結合してくれることが必須で、物理的特徴によってある程度嗅げる物質の範囲が決まって来る。
Q4:幼児にはママの意識しかないように見える。お父さんの匂いは?
⇒ 赤ちゃんの匂いは母のオキシトシン(愛情ホルモン)を上げたが、父の濃度は上がらなかった。断定はできないが、男性の生理反応を起こす可能性のあるものもあるだろう。
Q5:火災報知機にワサビを使ったものが実用化されたと聞いたが、いかがか?
⇒三叉神経を刺激すると目が覚める。ワサビのツンとする部分は痛覚で、三叉神経によって認知される。それを利用しているのではないか。耳の不自由な方には良い。
Q6:匂いに慣れるのは何故か?
⇒ 嗅覚受容体が匂い物質を受容すると、信号を送るカスケード反応が起こるが、それを抑えるような仕組みがあり、順応が起こる。脳でも順応が起きる。順応の機能的意味は、生活の中には匂い分子が沢山飛んでおり、それを続けると信号の洪水になってしまう。早々に順応し、新しく出てきた匂いだけに反応することで、匂い信号を上手に使える事になる。
Q7:感覚の違いは何か?
⇒ 揮発性は早く感じ、嗅覚受容体との結合の親和性みたいなものがあるかもしれない。ワサビのようなものでは、痛みと匂いの感覚が一緒になってインパクトがある。薬物は鼻腔から脳に届いている嗅神経にまとわりつく形式で物理的に脳に移行する。鼻からの薬は薬剤を直接、脳に届けることになる。
Q8:象や犬の嗅覚の感度が高いのは何故?
⇒ ゾウは嗅覚受容体数が2千種以上と言われている。受容体の種類数と感度の話は良く判っていないが、ゾウは着衣の匂いだけでゾウ狩り民族を見分ける。
イヌは受容体の数は多くはないが、嗅上皮のセンサー面積が大きく、匂いを嗅ぐ気流の通り方の効率もよい。低濃度でも感知できるかは、受容体の絶対数とか嗅覚神経の絶対数が関係してくる可能性がある。
昆虫にも嗅覚受容体がある。7回膜貫通型でなくチャンネル型。構造が違っても、その後の情報処理の原理はかなり似ている。
Q9:自分の体臭は好き、他人の体臭は嫌いとは?
⇒ 自分と同じような体臭を持つ人の匂いが好きの可能性有り。他人の匂い嫌いは、常在菌による分解生成物によるものなのかもしれない。
Q10:香水にスカトールが入っているのは何故?
⇒匂いの質は、嗅覚受容体の組み合わせでコードされているので、濃度の濃淡で描く受容体の匂いに対する親和性が異なる。応答する受容体セットも違ってくるので、匂いの質としても変わってくるケースがある。スカトールも微量だと良いにおいで香水に使われる。高分子を加えると長持ちする。
Q11:加齢変化で匂いを感じなくなるのは何故?原因は嗅細胞もしくは脳の問題か?
⇒加齢により、嗅細胞が存在している嗅上皮の膜が小さくなっていくので、嗅細胞も減少し、センサーが減少しているだろう。嗅粘膜には沢山の粘液があり、そのおかげで匂い物質が嗅覚受容体に吸着するが、その粘液の素性も変わり、より匂いが吸着しにくくなるといわれている。
脳に関しては、アルツハイマー型認知症で、原因物質候補の異常なたんぱく質の蓄積が嗅覚領域に溜まること、その蓄積が進むことで嗅覚系の加齢が進む。加齢系認知症と関係することとしては、異常なものが嗅覚系に溜まってしまうことで嗅覚能力が下がる。匂いの感じがなくなるというより、何の匂いかわからくなるということが言われていて、認知症の知機能低下より先に起こる。海馬より外側にある「嗅内皮質」が萎縮、変形し、その機能が低下して、嗅覚機能が低下する。頭葉内側側にある記憶を司る領域の委縮が生じて起こるとも言われている。
【所感】
幅広い領域のお話がお聞きでき大変面白かったです。食生活や生活に密着したお話、鼻で感じた匂いがダイレクトに脳に入り匂いをコードしていること、受容体数は400でも組み合わせは無数でおまけに個人差も大きいと。匂いの表現が〇〇のようなと、現物を用いた表現しかできないことも制約。奥が深すぎと思いました。
加齢変化による嗅覚の劣化のお話はなるほどと思い、先が不安にもなりました。まずは、 嗅覚を刺激し嗅細胞再生を促すことが日々できることでしょうか。
このたびは大変貴重で有意義な講話をして頂きましたことに、深く感謝申し上げます。
【報告】後藤幸子