第205回セミナー報告「芸術脳の科学~北斎の『大波』と脳の記憶構造を中心に~」 2019年7月
2019年 09月 09日科学技術者フォーラム 2019年7月度セミナー(第205回)報告
「芸術脳の科学」~北斎の「大波」と脳の記憶構造を中心に~
日 時:2019年7月20日(土)14:00~16:50
場 所:品川区立総合区民会館「きゅりあん」5F第4講習室
参加者:46名
題 目:「芸術脳の科学」~北斎の「大波」と脳の記憶構造を中心に~
講演者:工学博士・医学博士 塚田 稔 氏(玉川大学脳科学研究所名誉教授、玉川大学名誉教授)
演者は通信回路網の研究室のご出身で大学院では電気生理学、神経生理学、情報処理なども学び、学際的な神経科学、脳科学研究の先駆者として世界的に著名な研究者であるだけでなく、画壇でも数多くの受賞歴があり、日府展常務理事なども歴任されています。科学と芸術は同じ脳の営みですが、本セミナーでは、その両者を止揚された先生から、脳の創造の仕組みから芸術(絵画)の世界に至る最新の知見を交えた広範なお話を頂きました。
【講演要旨】
1. 脳内に情報を表現できるのは、神経細胞(ニューロン)同士が結合の強さを変える可塑性に基づく「学習と記憶」の機能があるからである。記憶の世界には周りの環境に適応するために脳内につくる外界の世界(「再現的世界」)と、外界からの情報がなくても連想と推論により脳内に情報を創発させる「情報創成の世界」がある。この二つの世界は外界の刺激変化や脳内の発想の転換によって、その世界をダイナミックにつくりかえているが、誰でも同じような共通の世界が実現されていくのではなく、個々に特徴ある世界(個性)が出現する。
2. 脳の発達プロセスをみると、生後数か月でニューロンが増殖、約数百億のニューロンがランダムに結合する。三歳までに無駄な神経結合が刈り込まれて適正数の結合となり、抑制性のニューロンも生まれる。脳では興奮性と抑制性がバランスよく発達することが重要であり、幼年期では外界の世界に適応していくために脳のパターン分離機能が発達し、外界を脳内に再現する脳内モデルが構築される。脳の機能形成のために、その構造を柔軟に変化させる仕組みとして脳の可塑性がある。脳の可塑性が一時的に高まり基本的脳機能の神経回路網が集中的に形成される時期は臨界期(感受性期)と呼ばれ、その時期に調和のとれた良い刺激を与えることが脳の正常な発達にとって重要である。臨界期の子ネコに縦縞だけを見せて育てたところ、横縞が認識できなくなった実験例がある。幼児期にいろいろな外界刺激を与えることがいかに重要であるかがわかる。
3. 幼児期をすぎると、ニューロンの軸索が発達し、情報伝搬速度が高まり、機能分化した異なる領野間の情報交換が容易になり、情報統合機能が増加する。この機能がコミュニケーションによる情報の創成に関連し、新しい情報処理の上位組織をつくりだし、脳の機能的階層構造が構成される。いろいろなパターンの特徴の階層構造がつくられると、次にパターン間の連想機能とパターンの抽象化機能が発達する。パターンの抽象化が進むとシンボル化が容易になり、新たな情報処理機能である推論や論理が発達し、言語獲得ができる。
4. 外界の再現的世界の創成は、網膜のニューロンにおいて、視野に映る物体を空間と時間の情報の特徴に分解して認識される。網膜での「中心視」は高い空間分解能があり、コントラストや輪郭などの対象の形や意味の情報をできるだけ正確に認知しようとする(What系)。この経路は視覚第1次野―側頭葉・左前頭葉で処理される。一方、「周辺視」では比較的時間分解能が高く、対象がどのような場所に存在するかを認知し(where系)、危険か否かを素早く察知する。この経路は視覚第1次野―頭頂葉・右前頭葉へ送られ、扁桃体からの情動情報を統合して処理される。すなわち、外界の複雑な視覚情報はバラバラに分解されて単純化された特徴を抽出し、脳内のWhat系とwhere系で組み合わせ、再び統合させることで、外界の複雑なものに対応している。
5. What系に注目すると、網膜では、暗所でも明所でも対象のコントラスト(輪郭)の情報を抽出する。それらの視覚情報は「第一次視覚野」において対象の形をエッジ(特徴)や線分の傾きや方向などの部分情報に分解、側頭葉で再びその特徴を統合して再現的世界を構成、左前頭葉で対象の形の意味を認知する。
6. 絵画の創作は、脳の機能と密接に関係している。物の形を決める輪郭は、外界の世界に存在するものではなく人間の脳が造り出すものである。物と物とを区別する際には、①コントラストの違いを検出する機構 (網膜)、②テクスチャー(質感)の違いを検出する機構(側頭葉後部)、③「形」の記憶(側頭葉前部)、などを用いている。そこに輪郭線が生まれる。
7. 側頭葉後部には、簡単な幾何学図形(〇、△、×など)に反応する細胞群が存在し、対象部分を単純な幾何学パターン(図形のアルファベット)で識別する。
8. 脳は外界を学習し、記憶し、修正することを繰り返しながら新たな情報表現をつくり出す。すなわち、学習と記憶がないと物は見えない。遺伝子は脳の基礎構造を作るが、学習・記憶は、生後の経験によって脳に新たな情報表現(個性)を作る。
9. 絵画を脳科学から分類すると、再現性の世界の絵画は、レアリズムのルネッサンス絵画であり、情報創成の世界の絵画は、心でみるモダンアートである。モダンアートは外界からの入力がなくても脳内神経記憶網を自発的に始動させて描いている。また、インスピレーションのような超脳の創造を行う芸術家は天地創造の原点に人間を引き戻し、人間とは何かを考えさせる表現力を強く有している。
10. 葛飾北斎の代表作「大波」に描かれた波頭の形は、実際の波を人間の肉眼では見えない5000分の1の高速度カメラで撮影することにより確認できる。北斎は実際に見えないものを描くことができたのだ。北斎の「絵手本」なるものが刊行されていて、そこには、簡単な○、△などの単純な幾何学図形を自己相似的に組み合わせて複雑な動物や植物や波を表現している。まさに「フラクタル」である。「フラクタル」という言葉はマンデルブローによる最近のネーミングだが、北斎は「単純な図形(図形のアルファベット)と単純なルール(学習則)を組み合わせることで、複雑な自然界を表現できる」能力に優れていたと言える。北斎やダ・ビンチなどの画家たちは自然界がフラクタル構造でできていることを知って描いていたのである。
11. さて、脳において、外界の情報(出来事)は、時系列として海馬に伝搬し、統合されて一時的に記憶される。海馬にはフィードフォワード回路と再帰結合をもつフィードバック回路網がある。演者らは、海馬の短期記憶はフラクタル構造で記憶しており、時間系列を空間構造の中に「自己相似」という規則を用いて埋め込んでいることを明らかにした。これは時空間情報の空間変換であり、「情報圧縮」である。
12. この圧縮情報を読み出すためには、埋め込んだ規則である相似性の順序関係の情報を加えて呼び出せばよい。すなわち、記憶神経回路網のダイナミックスを用いて呼び出すことになる。
13. 脳の記憶はフラクタル構造で単純な神経回路網に埋め込まれている。北斎の絵が美しいと思う。それは人間の記憶構造を巧妙に利用し、見事な情報圧縮によって描かれているからである。
14. 人間が霊長類のトップに君臨できるのは、過去・現在・未来の記憶を一瞬に操作できる脳の統合機能にあるといえる。人工知能が急速に進歩したとはいえ、まだ人間の優れた記憶機能を十分生かしているとは言えない。
15. 芸術と科学は人間の脳が生み出した異質の産物である。両者を止揚して新しい展開を期待したい。
(報告者:太田 哲夫)