科学技術者フォーラムH30年3月度セミナー報告「ヒトの“いのち”と遺伝学的多様性についての理解に向けて」
2018年 08月 23日科学技術者フォーラム平成30年3月度(第189回)セミナー報告
ヒトの“いのち”と遺伝学的多様性についての理解に向けて
日 時:2018年3月17日(土)14:00 〜16:50
場 所:品川区立総合区民会館「きゅりあん」5F第4講習室
参加者:39名
題 目:ヒトの“いのち”と遺伝学的多様性についての理解に向けて
講演者:元・東京医科歯科大学・助教授 理学博士 池内 達郎 氏
池内先生には、1)遺伝学的に理解する「いのち」とは?、そして2)「いのち」の遺伝学的多様性、の2点に分けて、専門外の参加者にも理解できるように、身近な例を示しながら説明して頂きました。なお、講演時間の関係で質問時間はありませんでしたが、セミナー終了後に開催した懇親会(19名参加)にて、活発に質問が出されていました。
<講演要旨>
1)遺伝学的に理解する「いのち」とは?
・個々の「いのち」はこの広い宇宙(時間的かつ空間的な広がり)の中で唯一のゲノムをもつ存在で、その出生は全く偶然であり奇跡である。このことは同じ個体から生じる配偶子(卵子、精子)はどれ一つとってもその遺伝学的組成が違うことを知れば納得できる。
・この配偶子における遺伝学的多様性は減数分裂時の次の二つの現象によってもたらされる。
・一つは、減数第一分裂では両親由来の相同染色体が対合した後、互いに独立して分離するので、でき上がった配偶子(卵子、精子)に含まれる23本の母由来または父由来の染色体の組み合わせは2の23乗(840万)通りとなる。こうして作られた卵子、精子のひとつずつが選ばれて受精することを考えれば、ある一つの個体(受精卵)が生じる可能性(確率)は1/223×1/223 (1/840万×1/840万) =1/70兆 となる。
・もう一つのメカニズムは、減数分裂における相同染色体間の組換えである。第一分裂で対合した母由来と父由来の染色体は分離する前に互いに交叉して組換えが起こる。組換えは不特定の多数の場所で起こるので、生じた配偶子での多様性はほとんど∞(無限大)である。
・したがって、無限大の中から一つずつ選ばれた卵子と精子との出会いで産まれた一つの個体(いのち)は、宇宙の中で唯一無二の存在であり、それを元にして発生し成長した姿が自分(あなた)自身であることが分かる。自らのゲノムを慈しむ心につながるだろう。
・細胞の増殖と個体の発生は、ゲノムDNAからRNAを介して作られた蛋白質の多様な働きによって進行する。あらゆる生命現象は様々な蛋白質の働きによるものだが、我々はまだ蛋白質の全貌を知らない。こうした蛋白質の設計図がDNAの塩基配列である。このように遺伝子/DNAは遺伝形質を次世代に伝える要因だけでなく、生命の発生と維持に関わる基本的な根源である。
・長いDNA高分子のうち、遺伝子の役割を担っている(遺伝情報がコードされている)部分はわずか数%である。90数%は非遺伝子領域であったり、イントロン(遺伝子領域内での非翻訳部分)であったりする。非遺伝子領域でも、蛋白質に翻訳されないmRNAが遺伝子発現の制御に関与していることが最近分かってきた。
2)「いのち」の遺伝学的多様性
・生物の多様な形質には、遺伝的要因によるものと環境要因によるものがある。また、多数の遺伝子と環境要因とが複合的に関与して生じる形質もある。ヒトでは身長、生活習慣病、成人病などが該当する。遺伝的要因による形質の多様性をここでは「遺伝学的多様性」と呼ぶ。これには遺伝子/DNAレベルによるもの(各種の遺伝病や血液型など)と染色体レベルによるもの(ダウン症候群など)とがある。
・単一の遺伝子による形質はメンデルの遺伝法則で説明できる。メンデルの法則が発表されたのは1865年であった。このうちdominant/recessive という用語はわが国では長い間「優性/劣性」と訳されていたが、「優れた/劣った」という語感に捉われ誤解の元になってきたため、日本遺伝学会は昨年(2017年)、「顕性/潜性」という用語に変更することを提唱した。
・今年はメンデルの法則から約150年、DNAの二重らせん構造がワトソンとクリックにより報告(1953)されてから65年、そしてヒトゲノムの30億塩基対が解読されてから15年目である。今やヒトの遺伝的多様性(個人差)がDNAレベルで解明される時代になった。
・遺伝的多様性の源はDNA塩基や染色体レベルでの変異である。DNAの変異で最も一般的なのは、一塩基多型(SNP)で、ヒトゲノムではSNPは1000塩基に1つの割合(0.1%)で認められる。換言すれば、1000塩基のうち999塩基は世界の人々みな同じである。人類みな同朋であることが実感できる。
・一つの遺伝子変異が原因となる遺伝形質の例として、一般の遺伝形質と疾患を伴う遺伝形質の例を紹介する。ヒトの遺伝形質としてABO血液型がよく知られ、A型とB型はO型に対して優性(顕性)であり、O型は劣性(潜性)である。血液型の差は赤血球表面にある抗原(糖鎖)蛋白質によるもので、それらに対応するDNA塩基はほんの数個だけが異なるだけである。
・アルコールへの感受性は、アルコールが体内に入って生じるアセトアルデヒドを分解する酵素、ALDH2(アルデヒド脱水素酵素2型)によるところが大きい。低活性型のALDH2酵素を持つ人は東アジアに偏在している。日本人の約44%がこの低活性型の遺伝子を持っているため、ほとんどが高活性型のヨーロッパ人やアフリカ人に比べて酒が弱い。日本人では約10%の人がアルコールを飲めない。高活性型と低活性型の差は、遺伝子のたった1つの塩基がG→Aに変化し、酵素分子内のアミノ酸がグルタミン酸からリジンに変化しただけの影響である。
・単一の遺伝子変異が原因となる疾患には主に次の3つがある:?常染色体顕性遺伝病(両親のどちらか一方から疾患遺伝子を貰った場合に発現)、?常染色体潜性遺伝病(両親の両方から疾患遺伝子を貰った場合に発現、片親だけから疾患遺伝子を貰った保因者は発現しない)、および?X連鎖潜性遺伝病(X染色体上にあり、主として男性に発現)である。
・潜性遺伝病(フェニルケトン尿症、鎌状赤血球貧血症など)で特に重要なことは、罹患者の頻度に比べて、その保因者は集団中に意外に多いことである。たとえば罹患者が1万人に1人程度の遺伝病でも、その保因者は集団中50人に1人の割合で存在する。疾患の種類は非常に多いので、どんな健康な人であっても疾患に関わる変異遺伝子(潜性遺伝子)を数個は持っている(保因者)。このように遺伝疾患は稀で特別なものではなく、遺伝的多様性の一つと考えることができる。
・染色体異常には数の異常(異数性と倍数性)と形態の異常(欠失、転座、逆位など)とがある。
・数の異常の中でも、染色体が1本多いトリソミー(例えばダウン症候群は21番染色体が3本)は、母親の高齢化に伴って発生率が高くなることが知られている。これは、女性と男性では減数分裂の過程に違いがあるためである。
・女性での減数分裂は胎生期に始まり出生時には第一分裂前期で停止している。減数分裂が再開するのは、成人してからの排卵時であるため、長期間卵巣内に稽留して退化・老化した卵では第一分裂あるいは第二分裂で染色体の不均等分離(染色体不分離)がおこりやすく、結果として染色体が1本多い配偶子(卵子)が生じる。一方、男性の減数分裂は思春期に始まり、以後精子形成は持続するため、高齢化の影響はほとんどない。
・何らかの染色体異常を伴った個体の出生率は約0.6%である。自然流産の約50%は染色体異常が原因である。受精卵の4割は染色体異常を伴うとの報告もある。また、染色体異常であっても、疾患をほとんど伴わないものもあり、その保因者は集団中に500人に1人ぐらいである。このように、染色体異常も決して稀なものでなく、我々自身に身近なものである。
・以上のように、遺伝学的多様性の源は、遺伝子変異や染色体異常などのいわゆる突然変異であり、こうした突然変異の蓄積で地球上の生物種の多様化が進んだという事実がある。ヒトも進化の途上にあるから、ヒト集団の中にある一定の割合で突然変異形質が存在し新生されていることは、ごく自然な姿であると納得できる。そしてこれは、演者による「遺伝学的な多様性の理解と共存する心」というキャッチフレーズに繋がる。我々が社会生活をする上での大切な規範であろう。
(報告者:碇 貴臣)